「ブリコラージュ」とは“寄せ集めて自分で作る”の意。初心者であっても囲碁を通じて考えることが色々ある。その考えをここに綴り、自分が囲碁とどのように関わっていこうとしているのか眺めていきたい。 そんなIkenagaが「ブリコラージュな囲碁(ブリ碁)」を目指す過程の記録。

隣は何をする人ぞ

 不思議なことが無くなる事はなくて、その中でも、気に留めていられるものと、気に留めていられないものとがある。

 人は本来、帰納(きのう)的に物事を推測するようで、沢山の経験を積み、その中から規則性を見つけだしてくる。それも無意識に。
 だから、数多く経験すればそれだけ物事を推測できるようになる(らしい)。

 ここまで書いて自分が何を言いたいのだろうかと考えてみたら、こうだった。

ツッパリ棒

 本日は土曜日なので囲碁教室。
 講義の内容は、先生が(おそらくNHK杯予選で)対局した際の内容の解説。

 その後、生徒同士の対局では、判定勝ちをおさめた。
 今回の対局相手は、私が教室に通い始めてから、(おそらく一番)多く対局してきたYさん。お互いに「またですね・・・」という感じで、ニギって始まった。

3月いっぱい

 今月いっぱいで通っている渋谷の囲碁教室を終了する。
 トータルで9ヶ月になるけれど、囲碁がどういうものか感じることができるようになったので、まず成果があったと考えている。

ひとりダイアローグ

囲碁は、勉強すればするほど“選択肢が増える”というようなイメージがあった。
でもよくよく思い返すと勉強すればするほど、だんだんと選択肢が絞られていく。検討すべき手が減ってくる。

ふと、ここで疑問が過ぎる。

「このままだと碁を打つ手の可能性が小さくなるばかりでは?」

まぁ、それほど棋力があるわけではないので、そういう領域に達するまでには、まだまだ道のりは長いだろう。

一度は貫き通したい

 囲碁を学び始めた頃から徐々に「戦術や戦略よりも、いかに自分の意志を貫き通すか、が重要なんだ」と実感するようになってきた。

 試しに打った石だからといって、危険になったら「やっぱりダメか」とすぐに諦める心持ちや、隅の戦いで自信が無いからといって、すぐにそこを捨てようとするような気構えだったり・・・。そんな意志薄弱だと勝てる碁にも勝てはしない、とビギナーなりに思った。

死活の広さと形

相変わらず、“死活”は要領を得ることができない問題だ。

今、なんとなく分かっていることは、格言にもあることで、生死を分ける要素は「広さと形」であるということ。(拡大解釈したら囲碁自体が「広さと形」が問題なのかな)

その類の格言をひくなら
 ・(辺の第二線は)「六死八生」
 ・(隅の第二線は)「四死六生」
 ・「第三線は四死六活」
 ・「隅の板六は死に、辺の板六は生き」

碁盤の上の基準

入門のときは全てにおいて手探り状態だった。今は少しはその状態から脱しつつある(気がする)。

その手探り状態の時に思ったのは 「囲碁を打つときに大切な“基準”は何だろうか?」 ということだった。

教室の先生やアシスタントから「広すぎる」とか「狭すぎる」と言われ続けてきた。
ただ、そういった例えば「広さ」の判断基準が無い自分にどうやって、それを判断するというのだ?という気持ちだった。

囲碁サロン/碁会所

昨日(2月20日)の囲碁教室が終わったあと、そこから近くの囲碁サロンへ行った。

入門クラスの時から一緒に勉強してきたHさんが、「この近所に碁会所があって」という話になり、「では行ってみましょう」という次第。
(囲碁サロンの詳しい住所を、携帯電話からインターネット(グーグル)で検索して、到着できた。こういう時だけ「便利だなぁ」と思う)

侮るなかれ

昨日の2月20日(土)も囲碁教室だった。

講義は、先生が大好きな“中国流”。
(来週も来月も、ずっと中国流なのだろう、きっと)

その後の対戦は、教室に通い始めて、おそらく初めて布石からの対戦。
しかし、その結果は自分が投了することとなってしまった。

負けることはもちろん悔しいが、今回はそれだけではない。
以前に勝負したときの印象だけで相手を侮っていたことが、さらに悔しさを増させた気がする。

手筋

今日は気分が良くて『新・早わかり 手筋小事典 - 増補改訂版』を購入した。
(といっても日付が変わってしまったので、昨日の土曜日のこと)

囲碁教室では、中国流の講義を聞いた後に、いつもどおり「決め打ち碁」で対戦。
今回の対戦相手は、以前にも対戦したことがあって、そのときに

「きちんと詰碁や手筋の問題を解いて基本をおさえなければ・・・」

と思わされた。(つまり手も足も出なかった)

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